高速バス、夜行バスの解説

足のせ台

バスは出発時刻10分前に乗り場へ回送されてきて、すぐに乗車改札が始まる。その後全員が乗り込み、定刻に発車する。運転手は一人しかいないようなので、ワンマン運行のようだ。交通センター、引野口、砂津、小倉駅前と客を集め、計15人強が乗る。高速門司港からの乗車はなく、すぐ先のめかりパーキングエリアへ。入れ違いにクイーン使用のムーンライト号が出て行く。 何度か九州と本州をバスで往復したことがあるが、めかりに止まるのは初めて、関門橋対岸の壇ノ浦では何度か休憩したことがあるが。 ここで15分休憩して23:40頃バスは発車する。このごつかれからかすぐ寝てしまうが、一瞬目が覚めたとき、バスはどこかに止まっていた。 翌朝は鴻ノ池パーキングで15分の休憩。 5時半過ぎにバスが動き出し、瀬戸大橋を渡って坂出へ。坂出駅前で数名の客を降ろす。その後は一般道を走って、丸亀バスセンターへ。ここで乗務員が交代し、バスは丸亀駅へ。その後高速を走って高松中央インター、ゆめタウン高松と停車し高松駅へ着く。20分ほどの早着。 四国高速バス全く期待していなかったんですが、車内の床がカーペット張りだとか、紙パックのドリンクサービスがあるだとか、最前列のシートの足のせ台は少し傾斜がついていて使いやすいだとか、かなりレベル高かった気がします。ハローブリッジ号でも乗ってみようかな。 昭和60年(1985年)3月14日(木曜日)に東北新幹線が上野延伸を果たし、最高速度も210q/hから240q/hまでにアップした。この年は1月に優勝24回の第55代横綱北の湖が引退し、8月には日航ジャンボ機が墜落し、500人以上の死者を出すなど、あまりイイ年ではなかったが、東海道新幹線に新たな風が吹いた。 それは“2階建て新幹線”こと、レーシックの入団である。0系にとって、100系は“子供”と言っていいだろう。   東海道新幹線では21年ぶりの新形式車両の入団にレールファンのみならず、日本国民に大きな話題となった。しばらく試運転してウォーミングアップしたのち、昭和60年(1985年)10月1日(火曜日)に運行日限定(ということは0系でも運行していた)ながら、〈ひかり3・28号〉でデビューした。注目の2階建て車両は8・9号車にあり、先頭車と共に新幹線では初めての付随車(電動車ではない車両)が登場した。   特長は2階建て車両ではない。洗練されたフォルムに普通車はホンモノのリクライニングシートとなり、3人掛け座席も“強制逆向き”が解消され、回転できるようになった。8号車は食堂車で、2階に客席、1回に売店と厨房(Chuboh)を設け、ビュフェは設置されなかった。   9号車グリーン車は2階が通常の座席だが、1階は1・2・3人用の個室となる。ちなみに昭和60年(1985年)に入団したときは試作車1編成しかなく、当時は10号車にもグリーン個室があった。また、グリーン車の座席に足のせがなく、レッグレスト(一部の夜行バスについているヤツ)だったが、不評。昭和61年(1986年)に登場した量産車では足のせに戻している。10号車もグリーン個室をやめて、すべて座席となった。また、量産車の登場により、試作車もそれに合わせている。   昭和61年(1986年)11月1日(土曜日)に国鉄最後のダイヤ改正が行なわれ、100系〈ひかり〉本格デビューと共に最高速度が210q/hから220q/hにアップした。東海道・山陽新幹線では22年ぶりのスピードアップである。これにより、最速〈ひかり〉の東京−新大阪間は3時間を切る2時間56分となり、東京−博多間は5時間56分となった。また、〈こだま〉も東京−新大阪間は4時間を切り、3時間52分になる。しかし、昭和63年(1988年)3月13日(日曜日)のスキャナ改正で、新富士、掛川、三河安城の設置により、東京−新大阪間は4時間台に戻ってしまい、4時間20分となってしまう。   この当時は100系が1番輝いていた時期と言っていいだろう。予備校の誰もが100系に乗りたがっており、まさに“究極の新幹線”だった。100系量産車の登場により、0系は22年(実は1986年も増備していた)にわたる増備にピリオドを打った。   昭和62年(1987年)4月1日(水曜日)に国鉄は分割民営化し、東海道新幹線はJR東海、山陽新幹線はJR西日本の担当となる。JR化後の0系は新たなる展開を迎える。   まず、JR東海は〈こだま〉の活性化を目的に指定席をすべて2人掛けにする2&2シート化を昭和62年(1987年)10月16日(金曜日)から開始。昭和63年(1988年)3月13日(日曜日)までに〈こだま〉の指定席2&2シート化が完了する。また、国鉄時代に発売されたフレックス(1983年1月31日から発売した新幹線通勤定期券)、フレックスパル(1986年4月から発売した新幹線通学定期券)が普及し、“新幹線通勤”がクローズアップし、〈こだま〉利用客も増加となり、平成元年(1989年)4月から、平成3年(1991年)3月までに再び16両編成に戻した。この頃は“100系効果”もあってか、東海道新幹線の利用客も増加の傾向にある。   一方、JR西日本は新大阪−博多間の〈ひかり〉の一部を“ウエストひかり”として、昭和63年(1988年)3月13日(土曜日)に石坂浩二をイメージキャラクターに起用し、私の記憶が確かならば、「我が、ままの3時間」というキャッチフレーズをひっさげてデビューした。   当初は普通車のみ6両編成だったが、すべての座席を2人掛けとして、ビュフェも“立ち食い方式”から、“坐って食える方式”にして、たちまち大好評となり、クーリング オフの平成元年(1989年)3月11日(土曜日)のダイヤ改正で12両編成に増結。新たにグリーン車とシネマカーが登場。トンネルの多い山陽新幹線を退屈させないアイデアで、シネマカーにはほかに洗面所の横にビジネスルームを設け、ノート型パソコンやワープロが使用できるなど、“ウエストひかり”ならではのアイデア車両だったが、ビジネスルームは好評でも、肝心のシネマカーは空席続きだったため、平成6年(1994年)8月、ここは愛川欣也に御登場願おう。 JR東海は100系の増備と“100系〈ひかり〉”化を進め、0系の体質改善を進めてきたものの、時代が昭和から平成に入ると、“スピード&チャージ”に突入。JR東海は平成2年(1990年)に300系が入団させ、0系にとっては“孫”にあたる車両となるが、270q/h運転に向けての試験を行なう。翌年をもって、100系の増備にピリオドが打たれ、平成4年(1992年)3月14日(土曜日)から〈のぞみ〉が東京−新大阪間、2往復にてデビュー。翌年には大増発され、東京−博多間の運行となり、JR西日本も300系3000番台を投入する(走行面や車内設備はJR東海車と共通)。   JR東海は300系の投入を急速に進めていた。気がつけば、〈ひかり〉の300系化が進み、〈こだま〉は0系から100系にチェンジしつつあった。〈こだま〉は“スピードの波に取り残された列車”となってしまい、減便の方向に向かってゆく。   JR東海は余剰となった一部の100系をJR西日本に譲渡して、0系を置き換えるが、残留となった16両編成バージョンの普通車の一部も簡易リクライニングシートから、リクライニングシートンチェンジ。3人掛けも回転可能とし、サービスアップ。また、山陽新幹線限定運用車はビュフェを撤去し、こどもサロンが登場。普段は〈こだま〉で運行するが、この車両が活躍するのは“ファミリーひかり”と銘打った臨時〈ひかり〉である。こどもサロンにベビーシッター経験者の女性係員が乗務し、小さな子供を遊ばせている。また、平成9年(1997年)3月22日(土曜日)から0系4両編成車が登場し、〈こだま〉で運行している。   平成7年(1995年)5月10日(水曜日)で0系の食堂車は営業を終了し、〈ひかり〉が東海道新幹線から姿を消したのは平成10年(1998年)10月3日(土曜日)である。東海道新幹線0系は“〈こだま〉専任”となるが、ビュフェは連結しても、すでに営業休止となっており、一部の便では車内販売をやめてしまった。   気がつけば500系・700系が営業運転を開始し、300系と共に“〈のぞみ〉3兄弟”の時代に入り、東海道新幹線から0系を見る機会が激減した。“100系〈こだま〉”も当たり前になってしまった。700系の営業運転開始が引き金となり、JR東海は桜が散った平成11年(1999年)4月に0系の勇退を発表した。   平成11年(1999年)7月31日(日曜日)、臨時〈ひかり313号〉新大阪行きが0系で走ることになった。〈こだま〉の指定席2&2シートで運行するのは初めてだった。夏休み中に何度か0系〈ひかり〉が走り、レールファンにとってはなによりの“夏休み店舗デザイン”になった。   そして、平成11年(1999年)9月18日(土曜日)を迎えた。この日はレールファン以外の人々も駆けつけ、“国民的行事”となった。長年、「新幹線の顔」として、「国鉄の顔」として、大活躍し続けた東海道新幹線0系の最後の勇姿をひと目見ようと沢山の人々が集結した。新聞やテレビで告知していたので、興味を持ったのだろう。奇しくもこの日、NHK大相撲解説者の出羽錦忠雄が解説生活に別れを告げた。 木曽桧一枚板のテーブルをみせられ 「アタシも持ってますよ、木製品!」と 楊枝を差し出したようなギター編からはじまったオフ会、 いよいよ演奏がはじまった。 たいていのセッションでは、なんやかやどこかで音がしているし 歌だけの人、見てるだけの人もいて、 はじめてボサノヴァを聞く人もいたりすると、 ぶっちゃけ素人としてはとても気が楽である。 しかしここは『ジョアン・ジルベルト全曲制覇の会』 全員が家庭教師の弾き語りをする。 しかも普段はほとんど会わない方々。 演奏が始まったら みんなシ――――ンとして ぴたっと静止。 みんなジ――――ッと見ている。 前のめりで。 怖いよ、このシチュエーションは。 しかも、おいおい、みんな暗譜かよ?! くどいようだがこの催し 『ジョアン・ジルベルト全曲制覇の会』では ジョアン以外は禁止である。 しょこらはいくつか曲を練習しているが 暗譜で弾ける曲は実に少なく さらにそこからジョアン限定となると、 いつものアレしかない。 てか、アタシ、どれが誰の曲かわかってないんだから 皆さん、めまぐるしく変わるコードを 譜面もなしにさらりと弾いてのける。 順番がやってきた・・・ 「あのぉ・・・この催しは譜面を見てはいけないんでしょーか?」 心優しき皆様は譜面台やら足のせ台やら用意してくださる。 ボサノヴァにはクリスマスの曲が少ないが この時期なのでやっちまえ!と ♪Presente de natal やっぱり、同じところでひっかかるのは練習不足。 年に1回ものだし、人前でやったのははじめてだ。 しょこら、この程度。 さて、2曲目どうする? みんな暗譜なのでつい、いつものアレにした。 ♪Garota de Ipanema そこで事件は起きた。 私はいつものように弾いたのだ。 明らかにジョアンではない。 中村善郎系で。 したら終わってから 「バーデン(パウエル)入ってましたよね?!」 と指摘された。 私ね、バーデン、聞いたことないのね。 だからどのあたりがバーデンかわかんないの。 しかし、やらかしてしまったことには違いない。 てか、イパネマをやること自体が 結構場違いだったりするんでねーか?! っつーわけで、この会にまったくそぐわない私が 身の程知らずも甚だしく参加したお話でした。 全員知らない人だったのだけど どうやら1人はその昔、 善郎教室発表会でお会いしてた方だったことが判明。 あと、うちの近所の方もいらして、 しょこらの失態を店の隅に蹴り飛ばせば 大変おもしろい催しでした。 来年、また開催する、と言ってたので それまでになんか暗譜しとかなきゃね。

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